independence

コンテンツになりたい人生

EverythingはChangingするのか?

人は変わるのか果たして。
私は幼い頃からずっとずーっと本が好きで、それこそ小中高と本屋さんは勿論、図書室や地元の図書館、さらに隣の市の図書館に通いつめるほど本が好きで、趣味は読書と言い続けてきて、本好きが高じて小説を書くようになって、人に見せて回るようにもなって。
でも、大学に入ってからある人にかけられた一言で二十年であたため、育ててきた私のささやかな誇りとアイデンティティは揺らぎ、崩れてしまったのでした。私の"好き"は、そんな脆いものでもありました。
よくTwitterでも人に批判されたくらいで揺らぐ"好き"なんてほんとの"好き"じゃない、みたいなツイートがたくさんRTされてたりするんですけど、私はそれに懐疑的です。脆かろうが儚かろうが、あの頃の私は純粋に本が好きだったし、愛してもいた。無粋な言葉に傷つけられる感性を非難される覚えはないのです。

大学に入って以降、本が好きと言うと、月に何冊読むのかとか好きな作家さんの作品は全部網羅していて当たり前だという前提のもと何の作品が一番好きかとか、そういう話になりがちで、「そんなことも知らないの」とか「好きなのに読んでないのはおかしい」とかそういうニュアンスの言葉がかけられるだけで私は本当に本が好きだと言えるのだろうかとふにゃふにゃするようになりました。文学少女を気取れなくてすいません、へへへと笑うようになりました。
人前で本を読んでいると「本とか読むんですか」「意外」と言われたりして、そのたびに教養がないとばかにされているような屈辱感を味わいつつ「へえ、手前のような馬鹿でも本くらい読みやす」と応えるようになりました。心の中では図書館と本屋に住んでた元文学少女なめんなよと思っていました。

そして極めつけに信頼していたある人からのあまりにきつい言葉。
「あなた、本読んだことあるの?その文章で?就職なんか無理よ。あなたみたいな人はこうやって信頼を失っていくのね。失った信頼は取り戻せないのよ」
私はきっと、その場では泣かなかったのです。言われた言葉の意味が咄嗟に理解できなくて。でもあの瞬間、何かが確かに壊れてしまったのだと思います。
読むことが、書くことが大好きだったのに、メールを打つことさえ困難になったあの瞬間。アイデンティティを否定されただけでなく、私は拙い文章を書くことで信頼を裏切ってしまったのだと強く感じました。
それまではどんなにばかにされて屈辱を味わったところで内心で何くそと対抗心を燃やしていられたのですが、そのときは本当に無理でした。私がばかにされるならまだいい。私は彼女の信頼を裏切ってしまったのですから。
好きとか嫌いとかもうわからない、単に怖くなりました。読むのも、書くのも。お小遣いなんて貰っていなかったから必死でお年玉を貯めて本を買って、図書館に電車で通って。作文を書いて賞を貰って、小説で賞を貰って、大会に出て。そんな日々があの一言ですべて否定され、あまつさえ信頼を裏切るとまで言われてしまったらもう何もできないじゃないですか。
それでも人は変われないもので、私はその一ヶ月後にはまた小説を書くようになるのですが、それまではすらすらと浮かんでいた言葉がぴたりと出てこなくなりました。というより、声が聞こえなくなったと言うか。私は書くときに自分の声で朗読されるのを書き写していくタイプだったのですが、今は頭の中の私が辞書を引くように言葉を探すんです。この感覚、今でも慣れません。慎重に、震える手で辞書を引く感覚。それでも書かずにいられないのは何故なんでしょうね?
さらにその数年後、私は懲りずに書店で働くことになるのですが、そこでの人間関係に疲れ、あっさり退職。大好きだった書店にも足を運ぶのが怖くなりました。
本がいっぱいある場所に行くと足がすくんで動悸がして、冷や汗が出てくる。本を読むと情報の濁流に飲み込まれるような恐怖感に襲われる。書こうとすれば違和感だらけの辞書を震える手で引くことになる。
それでも私は本が"好き"で、書くことが"好き"だと言い続けました。

しかし。今、認めましょう。
私と本の関係は"妄執"であり、"依存"であり、あたたかくて純粋な"好き"から形を変えてしまったのだと。
本が好きな文学青年、文学少女の皆さんに私は憎悪の気持ちすら抱いている。私もあなた方のように本が好きだと胸を張って言える自分でいたかった。深読みできない馬鹿な読者でいいから、下手くそな書き手でいいから、それでも好きだと笑っていたかった。本と二人だけの世界に住んでいればよかったのに、私はそれをいつのまにかコミュニケーションツールにしてしまっていたのだ。本を介して誰かと接することで、たくさんの傷を負ってしまったわけです。本は何も悪くないのに、本に纏わる思い出を辿るだけで今も古傷が痛むくらい。
大好きだったものを嫌いになるのは、たぶん想像以上に、しんどいです。

いや、嫌いになってしまえばいっそ楽なのかもしれない。人は変わる生き物のくせに、ほんとに手放せないものはいつまでも手の中にあるのです。膿を潰しても芯の出てこないニキビみたいに。何度も何度も繰り返し、しんどさを味わって、傷ついて。
でもこの間行きたかった出版社に落ちて、めちゃくちゃ落ち込んだりもしたけれど、なんとなく私はすっきりしました。「書くのは好き?」「読むのは好き?」と聞かれる度に「はい」と答えるのがしんどかった。無理している気がしました。やりたかった仕事だし、夢だったし、本当に行きたかったけど、その分怖くもありました。また同じことになるんじゃないかって。
でも、わくわくしたのは本当。本を読んで新しいことを知って文化に触れて知識を深めて自分の中の物差しを増やして、いい文章を書いて食っていくこと。こんな幸せ、他にないと思いました。
"好き"じゃないことを認めたら、途端に愛しくてたまらなくて。

"もう一度好きになりたい"ーー嫌いになったと認めたからこそ、そう思えるようになりました。
本を読んで興奮して泣きたい。
文章を書いて興奮させて泣かせたい。
コミュニケーションツールでもいいじゃない。私がかつて愛した本という男は何にだってその有り様を変えられるすごい奴だったから。
"好き"になれるかどうかはこれから次第。夢があると思いません?人は変われるんです。大事な根っこの部分は変わらなくても膿は弾けるし、赤みは引くし、細胞は新陳代謝し続けるものなんです。

もう一度好きになるための戦い。勝ち負けのない戦いのゴングが鳴る。



というわけで。

f:id:ui_a:20160425004113j:image

行ってきました!
ちょっと"変"な本屋さん、天狼院書店。本への愛しかない場所。ネットで情報を漁り、こここそが私が憎悪してやまない文学青年文学少女たちの場所だと思いました。足を踏み入れるまでにものすごく勇気が要りました。けれど一歩中に入ってみたら落ち着くの何のって(笑)
初入店のくせにえらく寛いでて自分の部屋みたいに自由にしてました。ニッチな本しかないわけでもなく、メジャーどころしかないわけでもなく。BLもありました。雑多で自由。イベントが行われていたために奥のスペースには行けませんでしたが、これは奥の本棚が気になってしゃあない。
たぶん一度足を踏み入れたら次回からはもっと楽になるので勇気を出して入ってみてよかったかな、と。ほんとはゼミにも入りたいんですが、FBが嫌いなのと資金不足でどうしたものか(笑)少し考えてみようと思います。とりあえずGWのイベントには行ってみるつもりです。
自信をなくしたただの冴えないOLでしかない私がもう一度胸を張って笑うための戦い。自己満足でも自己完結でもいい。剣をとってみようと思います。